ソウル時間旅行③ 京城夜曲

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 弘大入口駅から空港鉄道でソウル駅に出た。
 旧ソウル駅舎のすぐ北側にかかる道路橋が、おととし「ソウル路7017という高架遊歩道に生まれ変わったというので散策してみたかった(1970年に完成、2017年に遊歩道になったので「7017」。なお駅南側に線路をくぐる道路が新設され、自動車はそちらを通ることになった)

 ソウル駅は、東京駅に似たレンガ色のクラシック建築で有名だった。新駅舎に代わった今も、レトロ駅舎は保存・活用されている(後述)
 私らが降りた空港鉄道の駅は、新旧駅舎がある東口とは反対側の西口にある。もともと駅裏の風情が強く、古い住宅が丘の斜面に並んでいたが、東口がもうオフィスビルでいっぱいなため、いよいよこちらも再開発が進みはじめた。
 というわけで私らは、タワーマンションが建ちならぶ新しい街並みのほうから遊歩橋に上がった。


 上がってみて驚いたのだが、そこは遊歩道というよりも植物園のようだった。あるいはちょっとした樹林だ。
 大型のプランターが無数に配され、橋上にさまざまな木や花が育つ林が出来上がっている。
 プランターの底部では、高輝度LEDによる電飾が強い光を放っていて、あたりをエキセントリックな蒼色に染め上げている。
 プランターの配置には変化がつけられ、散策する人は茂みのスキマを縫って歩く気分になる。蒼い光に満ちた、不思議な樹林の中の小道だ。


     *****


 しばらく歩くと、ライトアップされた旧駅舎が見えてきた。橋の安全柵はガラス張りなので、眼下の夜景がよく見える。
 東京帝大の塚本靖教授が設計し、1925年に完成した。日本統治時代の韓国の首都玄関であり、東京駅の丸の内側駅舎に似た造りになっている。
 東京駅よりやや小ぶりだが、細部の装飾は非常に趣向をこらしたもので、欧風のエレガントな雰囲気と重厚な貫禄を兼ね備えている。朝鮮戦争でひどい被害を受けたが、早くから精力的に復元工事が行われ、シンボルの大きなドーム屋根も見事によみがえって、休戦後の経済成長を見守った(※0)

 高速鉄道の開業前年、南隣に新駅舎がオープンし、旧駅舎は役割を終えて交代したが(※Ⅰ)、国家文化遺産史蹟第284号)であるため、細部の補修はもちろん玄関に後付けされていた金属屋根の撤去なども行われて、竣工当時の美しい姿で保存されることになった。今は「文化駅ソウル284」という文化施設として第二の人生を送っている。

 韓国で日本統治時代の建物が史跡や文化財に指定されていると言うと、驚く人が結構いるのだが、往時に造られた建物のうち状態のよい物件の全てが、何らかのかたちで国や地方自治体に保護管理されている。普通の日本家屋が史跡になっていることもある。
 ぶっちゃけ、大切にされているのである。
 だが、日本に全体主義や空気読め感があるように、韓国にも、常に一定の反日感は維持しといたほうがいいじゃないかなーという空気があって、日本統治時代の建物を大事にしてますとは言い出しにくい。
 個人レベルでは「どうです立派なもんでしょう」と、お国自慢のひとつに加えてくれるのだが、公的見解としては「被侵略の象徴」だ(※Ⅱ)。外国の支配から独立した国としては当然そうなる。
 むろん、建物の価値は正当に評価しており、かの旧日本総督府の建物でさえ、撤去に際しては建築・芸術学界からかなりの反対があった。そりゃもう、日本人としては恐れ入ってしまうほどの評価であり、取り壊しへの反対論であった。


 確かに総督府の建物は総大理石の立派な造りではあったが、役割が役割だけにその風格は威圧的と受け止められた。また立地もいくらなんでもそりゃない的なもので、文禄の役で焼けるまで王宮だった景福宮の正門(光化門)を脇へよけ、正殿(勤政殿)の真正面にドデーンと立ちふさがっていた。なにしろ王宮の前だから街を睥睨するかたちになるうえ、横広がりの建物なので王宮がまるっきり隠されてしまい、「俺らが支配するからもう諦めろ」といわんばかりの佇まいだった。
 産経新聞ソウル支局長の黒田勝弘さんも「アメリカの進駐軍が皇居前広場にエンパイアステートビルを建てたら、我々もコンチクショーと思うだろう」という主旨のことを著書で述べておられる。
 それでもなお、統治時代の主だった建物のうち、老朽化以外で取り壊されたのはあれくらいで、しかも五大古宮復元プロジェクトの一環としての撤去である。当時(1996年)日本では「反日感情ゆえの撤去」とばかり報じられていたけれども、その捉え方は偏っている。

 
     *****

 閑話休題。
 遊歩橋の上には樹木のほか、いくつかの小建物があって、旧駅舎が見える位置にあるそれは「ユーラシアン ドリーム」というギャラリーになっていた。大陸横断列車の夢がテーマの展示がされているのだろう。

 韓国からはるかヨーロッパまで、具体的にはドーバー海峡トンネルができたからイギリスの果てまで、線路はつながっている。
 だから諸国の事情調整さえできれば、ものすごい長距離を走る国際列車が可能となる。
 採算性がーとか実現性がーとか、そんな退屈なこと考えるのはナシだ。
 これはギャラリーの名前の通り「夢」なんである。
 かつて日韓がともに抱いた壮大な夢。

 ここで少し思い出を話すと、16年前、旧駅舎が役目を終える直前期に私は駅前広場に立ち、首都の玄関としての最後の姿を撮影していた。
 そのとき、40代後半くらいの男性が話しかけてきた。
「日本人?」
「そうです」
「これケイジョウ駅ですよ」
 韓国語であったが、京城(※Ⅲ)のところだけ日本音で彼は言った。年齢からして日本統治時代の人ではない。彼は続けた。
「むかし、釜山からここを通って、満州まで汽車が走ったのです。ご存じですよね」
「はい」
「パリまで走ることもできた」
「そうですね。さすがに実現しませんでしたが」
「この駅でパリ行きの切符が売られた。東京駅でも売りましたね。ヨーロッパまでの切符」
 その後彼が話したことは、私の韓国語能力では細部まで聞き取れなかった。
 --日本統治時代に対する思いは複雑だが、われわれは今もユーラシア横断列車を走らせたいと思っている・・・
 だいたいそんなことを言っていた。
 2003年のことだから、彼は今ごろ60を超えたくらいの歳か・・・。


 かつて京城駅を通ってたくさんの日本人や韓国人がはるかな旅をした。
 逆に、はるかな国々からもたくさんの人々が、この駅を通って韓国や日本に来た。
 この記憶は日本より韓国のほうが継承している。

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▲ 強烈な蒼に光るプランター群の遊歩橋から街を眺める。蒼い光と超高層ビル群の組み合わせはサイバーな雰囲気をかもすから結構好き


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▲ プランターの光で藍色に染まる路面にさらに光が照射され、バラの花と詩が浮き上がっている(拙訳『きみのバラがそんなに大切なのは その花にきみが丹精をこめた時間のためだよ』)


 ギャラリーの傍らで「平和列車マーケット」というミニイベントが行われていた。
 仮設ステージで亜欧連絡列車の夢が歌われ、屋台風のワゴンではそのテーマに沿ったグッズが売られている。
 ワゴンには「釜山~モスクワ ****km」「ソウル~パリ ****km」などと書かれ、「統一号 ソウル⇔平壌」など列車種別と行先を書いたサボ(行先表示板。サイドボードの略)が飾られている。

 昨年、南北の道路・鉄道の締結式典向けに、ソウルから北領の板門駅まで列車が走ったが、あれは式典参加者のための特別列車であって統一号ではなかったから(※Ⅳ)、ワゴンに飾られたサボは本物ではない。
 しかし、祖国統一や平和というプラスの方向で、亜欧連絡列車を夢見ることができるのは結構なことだ。

 翻って亜欧連絡ルートの出発国だった日本では今・・・まあタブーというほどではないが、しかし日中戦争や日韓併合、満洲国創建などが回想されると思われているのか、あんまり夢としては扱われない。出版物にも載らず、TVでも扱われず、ましてコンサートなんか望むべくもない。そうして触らないでいるうちにすっかり忘れられてしまった。亜欧をつなぐ構想自体は後ろめたくないはずなのだが。


 東京から
JRで下関、関釜フェリーで釜山。近未来では韓朝中露の相互関係がよくなっているとして、国際列車でどこまでも行く。
 東京駅で発行された1枚の切符を握りしめ、ドーバー海峡をくぐってイギリスに出る。

 日韓連絡トンネルの計画も進んでいるし、それが貫通すれば文字通りの国際列車、規格の違いとかはこの際どうにかなることにして、新幹線がロンドンまで走れるのである
(※Ⅴ)
 のぞみ号で午後の紅茶を飲みに出かけようではないか!

 ・・・なんて、こんな現実離れした空想はもう、よっぽど酔狂な趣味人がときたま語ることはあっても、一般社会ではまず話題にならない。
 昨今の日本は右傾化したしたと騒がれているけれど、やっぱりこれは出てこないんだわなあ(※Ⅵ)。

 

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▲ 中央上のサボに「統一号 ソウル⇒平壌」と書かれている。その左は今はなき一般普通列車・ピドゥルギ(はと)号の「長項⇒天安」。
 国鉄からコレイルに民営化されて以降、急速な近代化が行われたため、行先も液晶式が過半数となり、このタイプのサボを使う車両自体ずいぶん減った


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▲ ミニライブが終わった仮設ステージ。右正面のソウルスクエア(旧大宇本社ビル)にはカラフルに光る動画が映し出され、夜の駅前のちょっとした名物になっている(プログラムは日によって異なる。撮影時のものは、暮らす・働く・踊る・祈るなど人間のさまざまなシーンをイメージしたシルエット動画で、写ってるのは『暮らす』の場面。マンションの各部屋でいろんなことをしてるシルエットが映し出されている)

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▲ 亜欧連絡列車の夢を歌うライブを静かに見守る旧京城駅舎。内部にはかつて日韓両国の文化人たちがトランスユーラシア構想を語り合った優雅なサロンなどがある



 ステージでの歌が終わり、しばらく余韻を楽しんだ後、私は再び橋の上を歩きはじめた。
 ビルのはざまの光の海に南大門が浮かび上がる。半月形にあいた入口の上に、両手を広げるように反りかえった門楼を置くその姿には、同じ東洋としての親近感と大陸的な異国情緒がある。
 ちなみに韓国人の日本旅行記を読むと、浅草寺の雷門や京都の町家などにさかんに異国情緒を感じていて、当たり前なのだがおもしろい。

 ゴォォーという大都会のさんざめきに混じり、今度はピアノの音が聞こえる。ソウルは音楽の多い街だ。
 それにしても、このメロディは・・・
 モーツァルトのピアノソナタ!
 うっわー、こう来るのかよ・・・。
 私はうろたえ、京城駅のほうを振り返って心の中で問うた。「わざとやってるでしょ!」

 京城が私をからかっている。
 くっ、くそぉう! それならとことん乗っかってやろうじゃないの!
 一人ぶつぶつ言いはじめた私の顔を、嫁さんが怪訝そうに覗きこむ。構わず私は歩を進めた。
 ソナタが近づく。聴く者をうっとりさせる、流れるような演奏。
 音の主は高木かすみではなかった(あたりまえだ)


 弾いているのは私と同年代くらいの男性だった。第三者からは彼のほうが若く見えたはずだ。黒髪であり、動作もいきいきしている。私は五年前に倒れてからぐっと老けた。
 秋冷えの始まっているソウルであり、彼は厚手のジャンパーを着ていた。
 後ろ姿しか見えないが、都市のどこにでもいるおじさんである。

 小型のピアノだから、彼はジャンパーの背をやや丸めるようにして演奏していた。
 その姿には音楽に対する真摯が感じられ、また愛嬌もあって、
私は彼に好感を持った。

 ピアノは小学校にあるような・・・それも音楽室ではなく教室の後ろに置かれていそうな、簡素なアップライト型である。
 しかも野ざらしで、弦の状態が良いとも思えず、さらにはペンキで可愛らしげに塗装された代物だ(※Ⅶ)
 どう考えてもこの演奏が、おもちゃに毛が生えた程度のこんな箱から発せられているとは思えなかった。劇場でグランドピアノを聴く水準だ。なんだか魔術を見る思いがする。京城に弄ばれている夜ならば、このくらいのマジックは起きるのかもしれない。


 演奏を終えると、男性は静かに立ち上がって会釈をしてくれた。
 そんな仕草も紳士的であり、同時にやっぱり、街のどこにでも居そうなおじさんであった。
 私と嫁さんは拍手を贈った。そして私は「とてもすばらしいです」と日本語で称賛した。

 私の韓国語らしきものは日本訛りであるはずだが、どういうわけか韓国で韓国語をしゃべると台湾人やモンゴル人に間違えられたりする。いや、台蒙両国人は格別似ているわけでもないから、要はドコの国の者とも言いがたい風采なのだろう。

 このときの私は無性に日本人でありたかった。
 京城駅の上で、日本人があなたの演奏に感動したのである。
 太古からあなたの国と交流し、時が流れ、あなたの国とともに壮大な夢を見、しかしひどい弾圧もした日本。
 さらに時が流れ、あなたの国が盾になってくれたおかげで赤化から守られ、あなたの国とともに再び夢を見て、互いに発展した日本国の私だ。

Japanese?」
 男性は英語で私に訊く。そうですと言い、あなたはプロでしょう、音楽家か、少なくとも学校の音楽教師ではあるはずだと、これは韓国語で尋ねた。
「いやあ、趣味ですよ」
照れ笑いをしながら男性は韓国語で答えた。
「まさか。ご謙遜を」
 私は言い募ったが、彼は照れ笑いのまま視線をそらせ、答えなかった。私は詮索するのをやめた。

 しかしとにかく彼の腕前はすごい。ほんとうに趣味でやっているのならば毎日弾いている。そうでなければあんな流れるような指づかいは出来ない。
 後ろのベンチで、上品な着こなしの婦人がにこにこしている。彼の奥さんだ。
 優しそうだが凛々しくもあり、「令夫人」と古風に形容したくなる美人。
 おそらく彼女は旦那のピアノの腕前を誇りに思っている。
 だから散策中の今もたぶん、「あなた、また弾くの」「ああ、弾くさ」「しょうがない人ねー、じゃあここで待ってるからね」なんてやり取りしたのち、満足そうな笑みを浮かべて、演奏中の旦那を眺めているのだろう。

 彼女が誇る旦那のピアノを、日本人の私が聴いて感動した。
 その感動が彼女に伝わり、ああ良い男と結婚したなーと、あらためて感じてもらえたらいいと思う。
 変な話だけど、これはワタシ式の愛国だ。
 何というか、うまく説明できないけれども、この方法は間違っていない。
 とにかくこのとき私は祖国を背負って大陸の地に立っていた。

「そうだ、日本の音楽を弾いてさしあげましょう。ええと、何がいいかな」
 男性はつぶやくと、再びピアノの前に座り、魔法の指で奏ではじめた。
 加山雄三だ。
 大陸の夜空に、加山雄三の曲がたおやかに流れてゆく。
 私は加山が格別に好きというのでもないが、このときは陶然とするほどの名曲に感じられ、涙がこぼれそうになった。
 倒れてからの私はすっかり涙もろくなった。

     *****

 曲を聴き終え、彼に別れの挨拶をして、ソウル駅から地下鉄4号線に乗った。
 荷物は空港駅から配送サービスでホテルに送ってしまっている。だから軽装で、金曜ラッシュ時の電車もさほど苦にならなかった。
 嫁さんとの韓国旅行で私はガイド兼通訳である。宿の予約とか配送サービスとか、そういうのは嫁さんのほうが遥かに詳しいので、任せてしまっている。

 ホテルの名前には明洞と冠されていた。ソウルの名だたる繁華街、明洞にあるホテルなら、夜中に腹が減っても屋台にうまいものを買いに行ける(※Ⅷ)。
 そんな程度の認識しか私は持っておらず、だから明洞駅で降りようとした。そうしたら嫁さんに止められた。
 もう一駅先の忠武路なのだという。

 ああそうか・・・。

 正直いうと、こうなるんじゃないかなーと思ってたわ・・・。
 京城駅の上で亜欧連絡の夢や、高木かすみのピアノソナタを聴いた夜だ。明洞と銘打ったホテルでも、今夜は明洞にあるわけがない。ずれる。
 そして、ずれるならこれは南北や西ではない。東だ。明洞の東、忠武路寄りになる。

 電車を降り、地上に出て、嫁さんはスマホの地図を見ながらこっちこっちと招いてくれる。退渓路の北側ブロック。いや、この巡りあわせからいって、よもや南側でないことは判っている。
 退渓路からずんずん北に入り、嫁さんにここだよと指し示されたホテルを仰いで、私は胸の奥が重くなった。嬉しいのでも悲しいのでもなくただ胸がいっぱいだ。またも落涙しそうになる。

 ホテルが面しているやや細い道路は、むかし日本人街の中心で、本町通り商店街と称していた道だ。今はカルビ焼き屋や汁飯屋が並びハングルの看板だらけだが、かつてここには寿司屋やそば屋、呉服屋などが軒をつらね、日本式の看板とのぼりが彩りを添えていた。演芸場や料亭、デパートなどもあり、韓国人街の鍾路と賑わいを競ったのである(※Ⅸ)。
 しかし日本人街というだけなら明洞も同様(明治町)なのだから、東にずれたというだけでこんなに衝撃を受けたりはしない。
 このホテルが建つ一画は草洞といい、日本統治期には「若草町」と称した。そして、高木かすみが百合的に慕う美術部先輩の日本人女学生・草壁早苗が住んだのがまさにここなのだ(かすみは隣の日ノ出町)


 まさか早苗の町に泊まることになるとは思わなかった。むろんホテルは最近建てられたもので、ホテルマンの誰もが若草町なんて知らない。真新しい部屋の大きな窓からは高層ビル群が望め、それはまぎれもなく現代の韓国である。けれども、私の目の前にはどういうわけか、この先も次から次へと、一世紀も昔の「日本」が現れ続けた。


 前回述べたとおり、私は韓国に「日本」の痕跡を探す趣味はあまりない。
 レトロなものが好きだから、統治時代のものも眼前に現れれば普通に興味を持つ。

 しかし、この国は解放後74年もの年月がたっていて、敢えて探さなければ往時の痕跡にはそうめったに遭遇するものではない。
 じっさい私は若いころから取材や観光で何十回も訪韓したけれども、今回ほど高頻度で「日本」に巡りあう旅は一度もなかった。・・・つか、京城駅にモーツァルトピアノソナタに若草町って、もうスピレベルの引っぱられ具合やろw

・・・気力があったら次回に続きます


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▲ 旧若草町。この道がかつて日本人街を貫く繁華街だった「本町通り」。このあたりには今、食堂やホテル、印刷店、出力センターが密集している。


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※0= 東京駅は太平洋戦争で南北2つのドーム屋根を焼失し、その後長らく直線的な台形屋根が載せられていた。2012年の改修工事を私はあまりよく知らず、たまたま大阪から帰京してきれいに甦っているのを見て非常に驚いた。まさかあそこまでやるとは思わなかった。戦前世代の親から東京駅のドームがないないとよく聞かされていたので復元はたいへん嬉しい。

※Ⅰ= 京義線のごく一部の便がソウル駅発着で、そのホームが旧駅舎側に移設されたため、おととしから僅かながらも駅として役割が復活した。
 京義線は、もとはソウル駅発着だったが、電化および都心部の地下化によってほとんどの便が龍山駅に入り、中央線に直通するようになった。ただ、旧ルートの途中にある新村駅(地上)にキャンパスが近い延世大・梨花女子大の学生たちにとっては、ソウル発着があったほうが助かるので、一時間に1、2本程度の運行は残された旧ルートは幹線列車の引き揚げ線としての役割があるから線路自体は健在で、回送列車のスキマを縫えば電車も走らせられる)

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▲ 概略路線図。厳密には龍山~清涼里間の中央線は京線の一部、京線の新設区間の正式名称は龍山線。なお新村駅は700mほど離れたところに地下鉄2号線の同名の駅があるため、京義線のほうは「新村地上駅」「京義線新村駅」まれに昔の名残で「新村汽車駅」と言って区別している


※Ⅱ
= 日本が個人的会話では「敗戦」と言うが公的には「戦」としているのと同じ。
「日本統治時代」も彼らの表現では「日帝強占期」なのだが、しかしその強占期にインフラが整備されたことは完璧に記録しており、これ自体を否定する人はいない。鉄道を敷けビルを建てろと指示したのは日本総督府だが、建設現場で汗を流したのは主に韓国人であり、その意味では日韓がともに作った時代である。
 ただ、ある日突然「線路敷くからどけ」と言われて家を没収された人がいたり、国土開発の利潤が内地に流れたりしている以上、「日本のおかげでインフラ整備されただろう」と恩に着せるのは酷だ。


※Ⅲ= 京城は日本統治時代のソウルの名称で、それ以前の朝鮮王朝時代は漢城という名の首都であった。しかし日本の「京」がそうだったように、王朝期の庶民間ではいろんな呼び方がされていて、京・京都・八百万アンお江戸八百八町と同じニュアンス)などと並んで京城と称されることもあった。また「みやこ」を表す固有語の「ソウル」と呼ばれることも王朝時代からすでにあった。ちなみに定都されるより前の、のどかな川べりの村だったころの名は漢陽
 以下は漢字の発音 【 漢城=ハンソン 京=キョン 京都=キョンド 八百万アン=パルベンマナン 京城=キョンソン 漢陽=ハニャン 】 韓国は漢字の訓読みをしないしないと言われつつ、単字では
(字意を訳すふうに)わりとやってるし、李朝中期まではもっとしていたので、いち字の「京」のときは「キョン」「そうる」と二通りに読まれた可能性がある。

※Ⅳ= 特別列車にはムグンファ改造のセマウル型客車が使われた(グレードアップ車。ITXセマウルと同じ塗装のやつね)。あれのサボには統一号とは書かれてなかったので、ワゴンに展示されてるのはやはり創作。なお「統一号」とは、かつて存在した韓国鉄道の列車愛称(兼 等級)で、準急クラスに相当した。

※Ⅴ= もちろん新幹線車両だけでなく経由各国の車両も使う。国内でたとえるなら今の高速バスの車両運用のように、A便は新幹線、B便はKTX、Cは中、Dは露・・・Jは英ユーロスターとする。そしていよいよKTXは、国際便をクムロ(꿈으로 / 夢へと名乗ってもらいたい。
 2003年の秋、高速鉄道の開業を半年後にひかえたコレイルは、新しい列車の愛称を民間公募した。ノンストップタイプと多停車タイプ、路線の別などを、愛称で判るようにしようと考えたのだ。
 結果、上位の応募作群から審査員が選んだ3つはクムロ、ピチュロ빛으로 / 光へ)、ミレロ미래로 / 未来へ)で、ああ良い名前だなあ、と日韓のテツは喜んでいた。ことに「夢へ」と「光へ」は、日本の「のぞみ」「ひかり」に通じ、感性のシンクロが嬉しい。いやもっといえば、日本統治時代に満洲行きの国際列車として、「のぞみ」と「ひかり」は本当にこの地を走っていたのだ。あれの再来だ。
 しかしこの「夢へ」「光へ」は、いざ決める段になって、どれをどの列車に充てるかでモメ、あーだこーだ言ってるうちに開業日が迫ってきて、結局「KTX123便」式の味気ない便数表示になってしまった。まあ世界標準はおおむねこの式であるから悪くはないけれど(*)、のちに新型編成に「KTX山川」と名付けたことを考えると、やはり味わいのある名前は欲しいのであろう。「山川」は先頭部の流線型を、山川魚(ヤマメ)をモチーフにしてデザインしたことに由来する。
 さて、亜欧連絡列車だが、各国の規格差をクリアして東京~ロンドン便に就けるKTXの編成名は、ぜひ「クムロ」にしようではないかコレイル! JR車は「のぞみ」でいれる。コレイル車は「夢へ」だ。これ以外にない。

= Nozomi 」「 Hikari 」など外国語の列車名を、慣れない字面や発音から峻別するのは一介の旅行者にとって結構難易度が高い。まして子母音数の多い韓国語はローマ字で書くと「 Saemaul 」「 Mugunghwa 」(セマウル、ムグンファ)と、日本語の場合よりさらに難易度が上がるので、当の外国人にとっては数字の便名のほうが実用的である。

※Ⅵ= 日本は右傾化したのではない。いまそう言われている風潮の実体は、政府の都合によって作り出された流行である。そこに、ヤバくなったらトンズラする軽薄ビジネスが便乗している。だから目先の快不快だけに終始し、ストレス解消用の露悪趣味が喝采を浴びる。

※Ⅶ= 楽器は湿気に弱く、ことに弦楽器はそうなので、高温多湿な日本ではピアノを外に置くことはめったにない。カラッとした大陸性気候の、それも雨の少ない秋だから置かれていたのかもしれない。しかし、覚えているだけで橋の上に4台はあり、あの高コンディションをどう維持しているのか謎だ。まったく雨が降らないわけじゃなし、怪しい雲行きになったら管理事務所からカバーを持った人が駆けつけるのだろうか。まあ下弦の弧を描いている橋であるから、水はけは良いだろうが・・。


※Ⅷ= 明洞なら夜中も屋台が出ているだろうと思う。・・・というのは近年、屋台規制が行われて、自治体の許可を得た店のみが専用エリアで営業する状況になった。いつかはこうなると思っていたが、いざなってみるとやはり物足りない。夜中にどんな田舎に放り出されても着ることと食うことには絶対困らないほど屋台天国だったのに、今は田舎どころか、大都会の真ん中でもヘタすれば夜中に腹の虫が鳴く。24時間のコンビニはたくさんあるけれど、それらのほぼ全ては屋台があることを前提に造られているから小規模で、品ぞろえも乏しく、往時の屋台の豊かさを補えるものでは到底ない。
「食うこと」にものすごい情熱を燃やす風土であるから、このままで済むはずがなく、いずれは広くて品揃えのいいコンビニとか、終夜営業のクモンカゲ(よろず屋)が台頭するとは思う。しかし当面は夜中にうまいものを調達しにくい状況がつづくので、旅行時には下調べが要る。
 ソウルでは鍾路南側の貫鉄洞に屋台村があるのを確認している。調べればほかにも結構あるのだろうと思う。臨時では汝矣島などで夜市(屋台祭)がひらかれる。

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▲貫鉄洞の屋台村(早朝の撤退後)。屋根つきの全天候対応となっている

※Ⅸ= 明治町を入口とする本町通り周辺には、日本資本のデパートである三越三中井、丁字屋、平田があった。ことに三越京城店は日韓併合の4年前の1906年に開店し、東京店・大阪店に次ぐ3位の売り上げを誇るほどに成長した。
 韓国独立とともに三越は撤退するが、京城店の建物
(1930年改築時のもの)は新世界百貨店本店として使われ、今も韓国を代表する名門デパートとして盛業中である。また、三越と新世界はパートナーシップを結んでおり情報や研修の交換をしている。
 一方、清渓川をはさんで本町通りと並行する鍾路には、
和信という韓国資本のデパートがあった。和信本店は1931年に開業するがほどなく焼失、37年に新店舗が鍾路1街交差点(いま鍾路タワービルが建っている場所)にオープンした。韓国人建築家の設計による当時の最新様式で、エスカレーターや電光掲示板などを先駆的に導入し三越の向こうを張った。日本撤退後も存続し、ソウルっ子は店舗前交差点そのものを「和信」と呼びならわしていた。1987年の閉鎖後も「鍾路1街交差路」より「旧和信」(クーファシン)と言ったほうが通じがよく、タクシーでもそうだった。
 今のソウルではさすがに「旧和信」は通じないが、年配のタクシードライバーなら「久しぶりに聞いたなーその名前」と懐かしんでくれるかもしれない。


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▲ 旧本町あたりの概略図 日本統治時代にはだいたい清渓川をはさんで北が韓国人街、南が日本人街だった。本町通りは日本の撤退後「忠武路」に改称したが、いま道路名としては忠武路駅から北上する道の、乙支路と交差するあたりまでがそう呼ばれている。ただ地名としては、旧本町通り沿いが西から忠武路1~5街である



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プロフィール

遠森慶

●国内旅行・韓国旅行・言語・文字・イラスト・共感覚など。

●コミュ障気味なんでコメントは受け付けてません。スマヌ。

●1964年東京生まれ大阪在住。男性。

●pixivをメインに活動しています。
http://www.pixiv.net/member.php?id=12569897

●一応ライター。拙著は書店やアマゾンでご購入いただけます。お仕事のご依頼などは以下のメアドにお願いします。
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